101号 SPRING 目次を見る
紫式部との奇縁が生んだ
一枚の絵との出会い
源氏物語の作者・紫式部といえば、平安時代の代表的な女流作家。
その紫式部との奇縁が一枚の絵画との出会いを生みました。
そんな劇的とも言えるエピソードを堀 亘孝先生に伺いました。
目 次
- ≫ 先生と紫式部との関わりを深めるどんな“出会い”があったのですか。
- ≫ その後、“葵上”をめぐってどんな“出来事”が起きましたか。
- ≫ 勝田先生はどのような作風の画家ですか。
- ≫ “葵上”とはどんな物語ですか。
- ≫ その後、絵はどうされたのですか。
一枚の絵との出会いをにこやかに話される堀 亘孝先生
尊父も先生ご自身も紫式部とは不思議なご縁があるとか。
実父・松下恒親は、京都府立医科大学を昭和3年に卒業後、産婦人科学教室の講師として教壇に立ち、診療に携わっていました。父はまさに“本の虫”と言えるほどの本好きで、文学的な素養を備えた人物でした。仕事の合間を見つけては、大学の西側にある盧山寺(紫式部邸宅跡)周辺をよく散策して、紫式部や絢爛たる源氏物語の世界に思いを馳せていたようです。
やがて父は昭和10年4月に開院する大連赤十字病院の初代産婦人科部長として、大学の多くの同僚や後輩たちとともに、家族ともども大連へ渡ることになりました。私が松下家の三男坊として大連で生まれたのは、昭和12年8月のことです。父は盧山寺のある広小路界隈がよほど懐かしかったのでしょうか、「お前の名前は紫式部の夫・藤
京都府立医科大学教授・歯科部長 堀 亘孝 先生
原宣孝にあやかって、“亘孝”と命名したんだよ」。そう嬉しそうに話すのが、昔から父の口癖でしたね。
先生と紫式部との関わりを深めるどんな“出会い”があったのですか。
紫式部の曾祖父・藤原兼輔の邸宅跡で紫式部も住んだと伝わる廬山寺私は昭和37年3月、大阪歯科大学を卒業してからも大学に在籍していました。口腔治療学教室の助教授を昭和46年に拝命し、生活面でも少しはゆとりが持てるようになりましたので、以前から好きだった京都画壇たちの日本画を少しずつ買い求めていました。
昭和46年の秋頃だと思いますが、寺町広小路近くにあった知人の画廊で、額装も軸装もせずに無造作に巻かれていた一枚の絵を偶然見つけたのです。広げると120号もある日本画の素晴らしい美人画でした。その場で一も二もなく買い入れましたが、実はその絵は源氏物語第9帖の葵の巻に登場する“葵上”という画題で、京都の美人画家として高名の勝田哲先生が、昭和24年の第5回日展に委嘱出品された作品であることが分かったのです。
その後、“葵上”をめぐってどんな“出来事”が起きましたか。
その絵の額装ができ上がると早速、勝田哲先生に見ていただき、私の名前の由来をお話ししますと、先生は大変感銘を受けられ、落款の他に“為堀先生”という為書きまでもしてくださいました。しかし、その絵はあまりにも大きな絵画で壁に掛けられないので、ずっと自宅の書斎に立て掛けてありました。
昭和57年1月のことですが、まさに奇遇な出来事が起こりました。父が長年勤めた京都府立医科大学付属病院の歯科部長に、何とこの私が赴任することになったのです。その時、あの紫式部が夫恋しさのあまり、私を呼び寄せたのではと思ったほどです。
これをきっかけに、私は“葵上”に好奇心が沸き、勝田先生の画業やこの絵の背景を知りたい衝動に駆られたのです。
河原町通をはさんで並ぶ京都府立医科大学(右)と廬山寺(左)
勝田先生はどのような作風の画家ですか。
勝田哲先生の本名は勝田哲三と言い、明治29年に京都で生まれ、大正9年、東京美術学校西洋画科を卒業後、日本画に転じて京都市立絵画専門学校に再入学され、早苗塾の山元春挙に師事された方です。師の山元春挙は明治4年に大津市に生まれた画家で、竹内栖鳳と並ぶ京都画壇の巨匠として知られ、円山派の森寛斉に学び、明治40年に始まった日展の先駆けとなった第1回文部省美術展覧会(文展)の審査員も務められました。
勝田先生は、このような先達の薫陶を受けながら、大正15年の第7回帝展に“お夏”が初入選してからは、昭和4年の第10回帝展と昭和6年第12回帝展で特選を受賞されるなど、とくに歴史的人物をテーマに画歴を重ねられました。師の山元春挙が鬼籍に入られてからは鏑木清方に師事され、昭和9年第15回帝展に、“夕べ”を出品され、さらに情感豊かな美人画の世界を拓いてこられました。
勝田先生が敬愛してやまない鏑木清方は、江戸時代から伝わった叙情的な浮世絵の中に、近代的な感覚を取り入れ、美人画や風俗画に新しい画境を切り開いた画家といわれます。明治42年第3回文展に初入選以来、帝展、新文展、日展などで活躍し、第1回帝展から審査委員の席にあり、昭和29年には文化勲章を受章されました。
勝田先生は、昭和11年から昭和24年まで、京都市立絵画専門学校で教鞭を執り、その円熟期に完成されたのが、この“葵上”なのです。
“葵上”とはどんな物語ですか。
全部で45帖から成る源氏物語の第9帖が葵の巻です。“葵上”は左大臣の娘で、親の意向でわずか16歳で4歳年下の光源氏と結婚させられます。ところが、夫婦仲はあまり芳しくなく、結婚後10年目に“葵上”はようやく懐妊します。一方、光源氏の愛人であった六条御息所は源氏の寵愛が遠ざかるのを悲しんでいる折りも折り、それに追い打ちをかけるような事件が起こります。
たまたま賀茂祭りの見物の時、“葵上”と六条御息所が鉢合わせしてしまい、互いの牛車をぶつけ合い、人波の後ろに追いやられた六条御息所は深い屈辱を負わされます。
この事件後、“葵上”は得たいの知れない生霊に悩まされますが、これは正妻への恨みから“葵上”に取り憑いた六条御息所の怨念でした。源氏はその生霊が“葵上”を恨んでいる六条御息所であることを知っていましたので、この物の怪と静かに囁き合い、ついには生霊を宥めることに成功して、“葵上”は美しい男児を無事に出産します。ところが、“葵上”は遂に生霊に取り殺されてしまいます。名画“葵上”には、女の嫉妬や羞恥心、悲哀などの情念が、地歌・井上流の清楚な京舞姿で象徴的に描かれています。
この“葵上”は能の出し物として上演され、物の怪の六条御息所は般若の面を付けているのが普通ですが、この絵では目尻のつり上がった上品な表情で描かれているのが特徴です。
その後、絵はどうされたのですか。
今はトミの店内で源氏物語の名画“葵上”(勝田哲画伯)“葵上”は、およそ16年間は私の手元にありましたが、ひょんなことから平成元年に、ある祇園のスナック風茶屋・トミの女将の小石一子(芸妓名は富治)に譲ることになったのです。というのも、トミは私が30歳頃からよく飲みに行っていた店で、女将には私の自宅まで時々送ってもらっており、女房に挨拶をして帰ることが幾度かありました。その度に女将は“葵上”を見て痛く感心し、「この絵の雰囲気に見合った店に改装したいので、是非譲っていただけませんか」と頭を下げたからなんです。
一瞬、戸惑いましたが、長年の付き合いもあるし、絵のモデルの目尻がつり上がった表情も、心なしか女将に似たところがあるので、意を決して女将に託すことにしました。
トミは、京都四条花見小路にありますが、店の改装が終わって、中央の広い壁に飾られたときはとても感動を覚えました。絵は多くのお客さんに絶賛され、テレビでも放映されて注目されたので、私も本望です。額の裏の“為堀先生”の為書きはそのままあります。今や“葵上”の持ち主はトミですが、かつて勝田先生が私に託された心は、今も私の胸中に残っているのです。
それなりの美術館に収蔵されるべき名画ですので、店での役割を終える時があるのなら、京都市内の美術館にでも寄贈してもらえればと密かに願っています。
この度、資料収集にご協力くださった京都市美術館の学芸員の皆さんや、京都市立芸術大学美術学部教務課の皆さんに厚くお礼を申し述べておきたいと思います。
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