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109号 SUMMER 目次を見る

ドクター招待席

春夏秋冬、一日一絵、天上天下、唯我独尊。お酒をちびりちびりやりながらキャンパスに 向かう・・・。そんな時間が一番幸せなんです。

河村 洋二郎

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ドクター招待席春夏秋冬、一日一絵。天上天下、唯我独尊。
お酒をちびちびやりながらキャンバスに向かう…。
そんな時間がいちばん幸せなんです。

■目次

(埼玉県志木市)河村洋二郎 先生(埼玉県志木市)
河村 洋二郎 先生
パリ大学よりピエール・フォーシャルメダルの受賞、スウェーデン王室・政府よりノーザンスター勲章の受賞。
スイス・チューリッヒ大学名誉医学博士の学位授与。
大阪大学名誉教授、甲子園大学学長の歴任。勲2等瑞宝章の叙勲…。
永年にわたる歯科医学への国際的なご功労によって、数々の栄誉を一身に受けられてきた口腔生理学の世界的権威・河村洋二郎先生。
白髭をなでながら、屈託なく笑われる、その表情は大海原のように洋々として清々しい。
良妻賢母の奥様・令子様と花々を愛でつつ、風の吹くまま、絵画やお酒を悠然と楽しまれている。
人生というキャンバスに夢を託して80余年。
その大胆な筆致、繊細な色彩の饗宴にはだれもが魅せられてしまう。

■東京生まれ大阪育ち。洋行帰りの父が“洋二郎”と命名。

大正10年(1921年)、東京府北豊島郡王子町、現在の東京都北区王子の生まれです。今でも名主の滝公園や王子稲荷は昔のままの風情が残っている下町です。父・幸作は石川県の旧家・森家から東京の河村家の養子になったので、今なおわが家では石川県を“お国”と呼んでいます(笑)。
素封家で炭鉱などを経営していた祖父・外吉は、名主の滝公園近くの地所に洋館風の家を建て、この家で私は4 歳までを過ごしました。名主の滝公園の池から溝に流れてきた金魚を手づかみした感触も生々しい思い出ですが、大正12年(1923年)の関東大震災の時に、祖母に手を引かれながら、真っ赤に燃えさかった空を目にしたこともよく覚えています。
父・幸作はエンジニアでした。ドイツに留学し、シーメンス社でレントゲンの生産技術を習得し、2年近く滞在していたようです。今でいう海外留学ですが、当時は“洋行”と言いました。私の名前は“洋行”の洋の字を当て、次男坊だったので洋二郎になったいうわけです。
父は帰国後、レントゲンの輸入やら大学病院への技術指導に明け暮れていました。そのことが私が医学の道を志す機縁になったことは確かです。その後、大阪転勤となり、一家は大阪府豊中市に引っ越します。
私は克明第一尋常高等小学校、旧制豊中中学校へと進み、東京の旧制成城高等学校理科乙種に入学しました。今やセピア色になった小学校時代、私が熱中したのは絵と虫取りでしたから、勉強した記憶はほとんどありません(笑)。

■天衣無縫に描いたクレヨン画が全日本絵画コンクールで入賞!

[自然を愛し、四季を愛で、生活を愉しむ…。] つれづれなるままの風流な感性から生まれた河村先生の傑作
自然を愛し、四季を愛で、生活を愉しむ…。つれづれなるままの風流な感性から生まれた河村先生の傑作。(Underground bar 1980・watercolor)
だれに教わるともなく子供の頃から絵を描くことが好きで、画用紙とクレヨンさえあれば喜々として遊びほうけていたようです。
私が通った克明第一尋常高等小学校は阪急電鉄宝塚線岡町駅近くにありましたが、田圃あり森あり小川ありと、兎追いしかの山♪~の古里そのもの…。絵の授業では校外でよく写生をしたものです。県(あがた)先生は二科会の画家で、当時は美術学校を卒業したての初々しい教師でした。でも、私をよく可愛がってくれました。両手で自由奔放、天真爛漫に描きなぐったりしても、かえって勢いがあっていいと褒められたものですから、ますます図に乗って図画の時間が待ち遠しく、絵を描くことが心底好きになりましてね。
算数や国語の授業中は借りて来た猫のようにおとなしいのに、図画の時間となるや俄然、水を得た魚!という始末(笑)。その甲斐あってでしょうか、小学4年の時に、クレヨンで描いた風景画が全日本小学生絵画コンクールで3位に入賞しました。これが子供心を熱く刺激したのでしょう、またまた絵のとりこになってしまったわけです。
もともとじっくりと丁寧に描くことは苦手で、気の赴くままに一気に描くのが得意ですが、これも小学生の頃に培われた素養かもしれませんね。

■絵画クラブ銀潮会のお世話をしたり、家内と二人展を開いたり…。

[写真] ガレージ・ギャラリー
花あり静物あり風景あり。“ガレージ・ギャラリー”は四季折々、百花繚乱の色彩の音楽で満ち満ちている。
旧制豊中中学校(現在の豊中高等学校)に入学すると同時に、早速、絵画部に入部しました。ところが、中学の図画の先生は写実的に緻密に描かないとご機嫌が悪く、私の奔放な描き方はお気にめさなかったようで、何となく気分が萎えてしまい、絵画部を辞めてしまいました。
今でも私がパリの町角で描いた絵が、同窓会名簿の表紙を飾っているというのも皮肉な話ですが…。
その後、成城高等学校から阪大医学部の時代は、ちょうど戦前・戦中に重なっていますから、絵をゆっくりと楽しむ余裕などとてもありません。それでも、医学部の絵画クラブ「銀潮会」に属して、学内展覧会も何度か開きました。戦後、OB会が組織され、昭和53年からは私が世話人を仰せつかって、毎年夏には大阪心斎橋のカワチ画廊でOB展を催しました。
私はだれにも師事することもなく、天上天下、唯我独尊の気持ちで絵を楽しんできましたが、家内の令子も銀潮会のお世話をするうちに、絵の面白さに引き込まれていったようです。家内の父は医師で、パステル画をよくしました。その血筋でしょうか、家内は「一陽会」の先生の教室に入会してからはメキメキと腕を上げてきました。
そんなわけで、私が古希を迎えた記念や、過去2回、家内との二人展をカワチ画廊とギャラリータナカで開いたこともいい思い出ですね。オシドリ夫婦とか夫唱婦随とか、羨ましがられましたが、絵に関しては“よきライバル”なんですよ。
その証拠に、この応接間はかろうじて私の絵ばかりを飾っていますが、リビングダイニングは今や家内の領域!あぶれた私の絵は、1階のガレージの壁面に追いやられる始末で、家内には“ガレージセール”などとからかわれているんです(笑)。
来年には私も、軽井沢の山荘で個展をと目論んでいますが、計画だおれにならんようにと…。

■カーネルおじさんにそっくり?肖像写真のモデルもまた愉し!

[写真] ケンタッキーフライドチキンのカーネルおじさんの前で、可愛いお孫さんたちとのスナップ
ケンタッキーフライドチキンのカーネルおじさんの前で、可愛いお孫さんたちとのスナップ。白髭といい、笑顔といい、ほんとそっくりさんですね!
長い生涯、写真との不思議な奇縁もありますね。写真が趣味と言えば、芸術写真を撮るのが趣味かと誤解を招きかねませんが、私とて小学校の頃、父にせがんでパーレットというカメラを買ってもらい、風景やスナップ写真を撮っては、ひとかどの芸術家を気取ったこともありました。
ケンタッキーフライドチキンの店先に立つカーネルおじさんの前で、孫たちと一緒にスナップを撮ったことがありました。ははーん、そうか!と笑われたことでしょう。孫たちが照れているのは、こちらを見て笑っている人が周りに大勢いるからです。“ケンタッキーのおっちゃん!”の声もかかりましたよ(笑)。日ごろ白背広に黒ネクタイだけは付けないようにしているのですが、体格も風貌も、白髭にメガネもそっくりらしい(笑)。
それはさておき、話は変わりますが、平成5年に阪大医学部付属病院が堂島から吹田キャンパスに移転しました。これで大学本部、理学部、医学部、歯学部、蛋白質研究所、医学部学友会館、松下講堂、微生物研究所などすべてを引き払ったことになります。戦前・戦中・戦後と40余年、この大阪市北区中之島で大学生活を送った私にとっては寂しいような懐かしいような思い出つきない場所なんですね、中之島キャンパスは…。

■肖像写真家・工藤清氏と出会ってついにモデルデビューも!

[写真] 第37回日本肖像写真家協会“人像”に出展された工藤清氏入魂の入選作品「休日、河村教授」
第37回日本肖像写真家協会“人像”に出展された工藤清氏入魂の入選作品「休日、河村教授」。今や人物肖像写真の古典とも言われるほどに仕上がった傑作だ。
阪大とは目と鼻の先、肥後橋のそばに工藤写真館があります。記念行事があれば、いつも工藤清氏に撮影をお願いしていました。事実、阪大歴代の方々の肖像写真の大部分は工藤氏の手になるものです。
昭和60年でしたが、その工藤氏から、およそ30年ぶりに突然ハガキが舞い込みました。第37回日本肖像写真家協会“人像”に出品するので、モデルになってほしいと書いてあったのです。
新聞の学術欄に載った私の写真がいたく気に入られたようで、やめておけばいいものを工藤氏の説得に負けて、にわかモデルになることになりました。
撮影当日、2人の弟子を引き連れて現れた工藤氏に言われるままに、右を向いたり斜めに腰掛けたりと照れ臭い思いをしつつ、ようやく撮影完了。数十カットのなかからの出品作が入選して、「大阪の人」展や日本肖像写真家協会“人像”で展示されました。
1枚の写真でその人物の来し方や人格、人間性さえもあぶり出す肖像写真家・工藤氏でしたが、10年前に95歳で鬼籍に入られました。天寿とは申せ残念なことです。

■口の健康を第一においしく食べて、楽しく生きること。

[写真] チューリッヒ市の春の祭典で、大臣や市長のお歴々と行進される河村先生。(中央帽子の人)
チューリッヒ市の春の祭典で、大臣や市長のお歴々と行進される河村先生。(中央帽子の人)
私が大阪大学医学部の生理学教室から阪大に新設なった歯学部に招かれ、口腔生理学(Oral Physiology)の研究を始めたのは1951年(昭和26年)でした。でも、当時は咀嚼、嚥下、咬合、舌の機能、味覚などの研究は皆無でした。
“歯の健康(Dental Health)だけでなく、私が40余年にわたって繰り返し述べてきた口腔全体の健康(Oral Health)も大切”という主張は、当初は国内では受け入れられませんでした。
その後、UCLA医学部生理学教室の客員教授として渡米し、NIH(米国国立衛生研究所)から助成を受けて研究を重ねた成果も実り、フランスやイギリス、北欧や日本でも口腔生理学の重要性がようやく認識される環境が整ってきました。
ですから、私の現在あるのは、多くの恩師の先生方の交流と恩義の賜と感謝しています。わが国の心臓外科の草分けとなった小澤凱夫先生、慶応義塾大学医学部生理学教授で、のちに神奈川歯科大学口腔生理学教授になられた林髞(木々高太郎)先生、阪大医学部生理学教授で条件反射研究の第一人者となられた吉井直三郎先生をはじめ、脳神経生理学の世界的権威・ツォッターマン先生、UCLA脳研究所のマグーン先生…。特にこれらの先生方には、学生時代から亡くなられるまで公私にわたりご教示、ご好誼にあずかりました。そのご恩は終生忘れられません。
忘れられないと言えば、生理学の研究や学術交流が評価いただき、パリ大学からはピエール・フォーシャルメダルを、スウェーデン王室・政府からはノーザンスター勲章をいただいたり、スイス・チューリッヒ大学名誉医学博士の学位を授与されたことは、今なお名誉なことだと思っています。大阪大学名誉教授や甲子園大学学長を歴任できたことも、多くの方々のご高配のお蔭と感謝の念に耐えません。
ところで、82歳の今も歯は全部そろっています。嫌いな食べ物はありませんが、年齢なりに消化力が衰えるのは致し方ないにしても、よく噛み、過食や偏食にだけは気をつけています。
酒もワインもウイスキーも大好きです。そんな役得でしょうか、白鷹の辰馬社長に依頼され、日本経済新聞に一文を寄せたこともありますし、“ブランデーを贈ることはくつろぎを贈ること”なる宣伝コピーを雑誌に書いたこともあります。
長年、味覚生理学の研究を重ねてきました。おいしく食べるためには口の健康だけでなく、口顎や咽頭の構造が健康で、これらが生理的に調和して働くことが大切ですね。
まさに紆余曲折の人生でした。脳外科医たるべき私は歯学部で口腔生理学に携わる道を歩むことになりました。その結果、家内は外科医と結婚したのに、いつの間にか口腔生理学者と結婚したことになったわけで、当時、家内は契約違反だ!とつぶやいたものですが…(笑)。
この6月、18年間余り住み慣れた大阪千里の自宅を引き払い、娘一家が暮らす志木市内に引っ越しました。私のことですから、いずれ天気のいい昼下がりは、陽だまりでちびちびやりながら、花や景色をスケッチしていることでしょうね。

撮影:永野一晃
写真資料提供:河村洋二郎

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