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110号 WINTER 目次を見る

ドクター招待席

点も地も匂い立つばかりの美しさ。日向の国、わが故郷・宮崎は私の生きる源、終生のお宝です。

野村 靖夫

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ドクター招待席天も地も人も匂いたつばかりの美しさ。
日向の国、我が故郷・宮崎は私の生きる源、
終生のお宝です。

■目次

宮崎県宮崎市 野村 靖夫 先生(宮崎県宮崎市)
野村 靖夫 先生
温暖な気候風土、どこまでも続くスカイブルー、フェニックスやビロウ樹が風に揺れる日南海岸、コスモスやハイビスカスが咲ききそう高原、緑なす山並み、神話伝説が悠久の時を刻む町の佇まい、豊潤な山海の幸、温厚な人々…。神々が大地に描いた生命力と色と匂いに満ちた桃源郷。ここは“ひむかの郷”宮崎だ。日向灘の潮騒を聞きながら、野村靖夫先生は山野を愛し、絵を愛し、温かな家族や友人に恵まれつつ、70余年を悠然と歩んで来られた。“神武さん”と親しまれる宮崎神宮の梛(なぎ)の木立が見守る参道を抜けると、野村先生の満面の笑みが迎えてくださった。

■南国の陽光を一身に日向に生まれ育って70余年。

昭和6年(1931年)1月生まれですが、大阪歯科医学専門学校在学の4年間と、岐阜に住んだ9年間の合わせて13年間以外は、ずっと宮崎で暮らしてきました。宮崎は私の血となり肉となって、私を支えてくれていますね。
私たちの世代に共通の体験といえば、やはり戦争でしょうか。私にとっても戦争は鮮烈な印象となって今も蘇ってきますから。それは昭和18年(1943年)4月に入学した県立宮崎中学時代の体験なんです。入学するや否や麦刈りや田植えをしたり、暗渠排水路や滑走路を作ったり、塹壕を掘ったりと、それはそれはまるで農学校に入ったような毎日でした(笑)。
しかし、鋤、鍬、鎌、スコップの扱いに馴染んだおかげで、後々、登山やボーイスカウトの活動に大いに役立ったのは皮肉な巡り合わせですね。
ところが終戦の年を迎え、3月に宮崎大空襲に遭い、不自由な防空壕生活のさなか、末妹・ルリの衰弱死、父・卓二の出征、私の学徒動員と続き、残された家族は縁を頼って高岡町に疎開、一家離散の果ては、空家も空襲で灰燼に帰すという悲惨なあり様でした。
私はまだ14歳でしたが、淋しさや心細さを感じるいとまもなく、動員先の宿舎になっていた川南国民学校に赴きました。学校での作業は尾鈴山系の裾野に広がる松林で松脂を採取する仕事。航空燃料のオクタン価を高めるためと聞いていましたが、グライダーが置いてある落下傘降下練習場を見とれながら横切って行ったので、遠足気分も手伝い、苦痛も感じませんでした。まだほんの子供だったんですね(笑)。
後年、歯科医専の歯科材料学の講義でテレピン、ロジンの薬品名を知った時に、ふと松脂の臭いが蘇ったものです。

■勉学の遅れを取り戻すべく猛勉強!警察署の電灯を借りて徹夜も。

梛(なぎ)の木立に包まれた宮崎神宮の参道
梛(なぎ)の木立に包まれた宮崎神宮の参道。雨の日も風の日も、中学時代の5年間、野村先生が毎日通った道だ。
戦時中とはいえ、休日は川で泳いだり、洗濯したり、雨の日は竹細工に夢中になったりで、とても勉学とは程遠い日々でしたね。辛いのはやはり食べ盛りなのに、お腹いっぱい食べられなかったもどかしさ。それでも、村の人達が蒸した団子や芋などを分けてくれたり、炊事をして食べさせてくれた時のありがたさは今も胸に残っています。
敗戦の日、友人と昭和天皇の玉音放送を聞きながら、日本や自分たちの将来について泣きながら話し合ったひと時など、その当時の思い出は生涯忘れられませんね。先生に叩かれることも、ままありましたが…。よくよく考えてみると、先生のお説教を聞いている時でも、先生と視線が合うと「ニコリ」とするように見えるらしく、本人は神妙な顔のつもりが、どうも心証を害されるらしくて、随分と痛い目にあったものです(笑)。
食糧不足や世情不安に煽られて、勉学の意欲もそがれる日々でしたが、秀才たちが4 年修了で旧制高校、大学予科に進学するのを見るにつけ、いくらのんびりやの私でも、5 年生にもなると少なからず焦りが出て、進学のことが気になり始めたのです。
ところが、夜間は停電、図書館は9時までで、勉強する時間も場所もない。窮余の末、思いついたのが宮崎小学校の東側にあった警察署でした。
学校が引けるとすぐに仮眠し、夕食後に、一緒に通学していた矢野一誠君や荒武秀昌君たちと連れだって、お願いしてあった警察署で終夜猛勉強?して、明け方に帰り登校するという非常手段を取った訳です。
後々、三人で「もっと早く勉強に取り掛かっていたら、どこでも合格できたのに」と述懐したものでしたが、すでに後の祭りで…(笑)。

■同じ釜の飯を分け合った仲間と望洋五十六会を結成。


子供の頃から幾度も山行きした双石山(ぼろいしやま)の山並み。その山容は昔のままだ。
何はともあれ、県立宮崎中学を卒業したのは、昭和23年(1948年)。もう半世紀以上も昔になりますか。この年が旧制中学最後の卒業生(五十六回生)だったことから、同期生が集まって結成したのが“望洋五十六会(ぼうよういそろくかい)”なんです。
初代会長は故人の前宮崎市長・長友貞蔵君で、その後釜を私が仰せつかることになりました。貞蔵君は有言実行の人でしたね。「子供達は、何もない野っ原で裸足で駆け回り、自分で遊びを創造するのが最高なんや。犬や猫の糞で汚れた砂場や遊具は必要ない」というのが持論で、その信念通りの公園を丸山町に作ってくれたのですから。
平成6年4月に、歯の治療に来た時のやり取りが今も脳裏に浮かびます。「今日は少し時間がかかるが、よう口を開けちょれるか」「うんにゃ、よう開けちょらん。早うしい」。
治療後、彼が家内に「奥さん、奥さんの元気をくだい!」と言ったのが印象的でした。公園の桜がひらひらと散る中で「立派な公園を作ってくれて有難う、元気になったらまた九重や阿蘇に一緒に行こや」と話しかけると、「そんげあっと、いっちゃがなあ」と、笑いながら帰って行きました。しかし、その夜に彼は入院、5月3日に癌のため帰らぬ人となりました。
亡くなる1カ月ほど前に、会の面々が奔走して、市長随筆「冷や汁の味」の出版に漕ぎ着け、彼に手渡せたのが、せめてもの恩返しになったのではと思っています。
戦時中は空爆にさらされながら、戦後は食料難や物資不足を克服して助け合ってきた学友たちの団結力がありました。同じ釜の飯を分け合った多くの朋友、畏友の存在は、我が人生の忘れ難い心の財産となっているのです。

■“平等”を重んじた信念の父。穏やかで情愛の深い母。

野村先生の最新作 ネパール旅行の思い出を込めた「ナマステ」(2003年)
子供の素朴な目線で描くのが、野村家の画風。野村先生の最新作はネパール旅行の思い出を込めた「ナマステ」(2003年)。
片時も忘れられないといえば、やはり父母の思い出になります。話は溯りますが、父・卓二は母・三代と結婚後、大阪歯科医専を出て勤務医をしていた西宮から帰郷し、宮崎で開業したのが昭和6年(1931年)でした。
父は学生時代から野球や相撲の選手として活躍したスポーツマンでした。金銭的には無頓着な人でしたから、母は随分苦労したようですが、子煩悩は人後に落ちず、私を魚釣りやスケッチによく連れ出してくれました。油絵や彫塑もよくした芸術肌の人でしたね。
“親父の背中”とはよくいったもので、私は誰にでもわけへだてなく接する父の包容力と頑固一徹さを見て育ちました。薩摩魂を貫いた怖い親父でしたが、いろいろな人物が父の周りに集まっていたことで、“平等”を重んじた父の信念の強さは、子供心にでもよく分かっていました。
この父にしてこの母あり、といえばいいのでしょうか。三男三女の小宝を授かった母・三代は、いつも穏やかで心くばりや情愛の深い人でした。宮崎アララギ会に入り、歌集「くろがねもち」を上梓した歌人でもありました。
“絵が好きとふことのみ聞きて心決め会ひしことなき夫に嫁ぎし”と詠むほど絵を愛した人で、私の絵にも時に手厳しく、時に丁寧に批評してくれたものです。多くの友人に囲まれたのは父と同じですが、苦労の片鱗も見せずに良妻賢母であり続けた母には、心から感謝の念でいっぱいになります。
父母ともに86歳で天寿をまっとうしました。私が医師として世の中のお役に立てているのも、両親の温かな愛育と加護の賜物と感じています。

■登山靴の紐を絞める時のあのときめきが山歩きの魅力。

フランスの秀峰・シャモニーを背に愛妻・弥生様とツーショット(1995年)
フランスの秀峰・シャモニーを背に愛妻・弥生様とツーショット(1995年)。
野村家の一族、親戚筋は昔からモダンというか、進歩的というか、皆で連れ立って山歩きをしたり、渓谷で泳いだり、飯盒炊さんを楽しんだりしていましたから、私も小学生の頃から山行きは馴れ親しんでいました。
生まれつき運動神経は今一つ、特に走ることが苦手な少年でしたので、昭和22年(1947年)、中学4年生の頃、登山部員の募集があり、走らなくてすむならという単純な動機で入部したのが山岳部なんです。入部早々、双石山(ぼろいしやま)や霧島山系の山々は、何のトレーニングもなしに登りましたし、歯科医専を卒業後は帰郷するたびに、山岳部の仲間たちと双石山、鰐塚山、霧島連山、尾鈴山系などの県内の山々を次々と登攀しました。
岐阜医科大学病院の勤務医時代には、山好きの同僚に恵まれたこともあって、多忙の合間を縫っては鈴鹿山系、立山、穂高岳にもチャレンジしてきました。
昭和39年(1964年)4月、長男・賢介の誕生を機に9年間過ごした岐阜から帰郷し、妻・弥生とともに江平町の借家で開業することになりました。
開業後は夫婦ともども、開聞岳、高千穂峰、韓国岳をはじめ、大崩山、普賢岳にも足を延ばしました。
昭和55年(1980年)に、銀婚式の記念にと、平嶋(元・宮崎日々新聞社長)夫妻を誘って、ネパールのポカラ周辺の山々をトレッキングしてからは、病み付きになり、ネパールに2回行った後は、“チョータレ会”の皆さんと海外遠征にも挑戦中です。スイス、カナダ、フランス、イタリア、オーストリア、ニュージーランドなどの名峰名山を楽しみながら登っているところです。
また、平成13年(2001年)5月からは、“望洋五十六会”の仲間が古稀を迎えた記念にしようと、大分県境から鹿児島県境までの海岸線400kmを徒歩で横断する計画を立てました。夏場を避けて月に1 回ずつ、1日10~12km、3時間のスローペースでスタート、この10月までで延べ614人が参加し、約300kmを踏破しており、来年6月には鹿児島県境に到達の予定です。焦らず慌てず諦めずを合言葉に、名所旧跡を再発見しつつ、友との楽しい語らいや健康の喜びを噛みしめながら、一歩一歩着実に歩を進めています。
朝の冷気の中、登山靴の紐を締める時の緊張感、未知の世界への期待感、そんなぞくぞく、わくわくするあのときめきの一瞬、それが山歩きの魅力でしょうね。

■ボランティア活動に目覚めた救ライ奉仕団の大島青松園での出会い。

救ライ奉仕団
救ライ奉仕団に参加し、大島青松園を訪問。野村先生にとっては、ボランティア活動を始める貴重な体験となった(1952年)。
美濃加茂ボーイスカウトの少年たちの指導に余念がない野村先生
美濃加茂ボーイスカウトの少年たちの指導に余念がない野村先生。岐阜県少年団体キャンボリーにて(1964年)。
長い人生では、人との出会いの妙、縁の深さを痛感することが度々あるものです。歯科医専時代に、梅本教授とともに救ライ奉仕団に参加して、大島青松園を訪問した時もそうでした。医師、看護師の献身的な姿、その情熱と使命感の強さに身が震えるばかりの感動を覚えました。
患者さんとの座談会では、患者さんが「医学の力で、この苦痛と恐怖から早く助けてほしい」と嘆願される言葉に強い衝撃を受け、医療人としてなすべき仕事の重さを痛感したのも、ボランティア精神に目覚めたのも、まさにこの時だったろうと思います。救ライ奉仕団に属して活動していた妻・弥生との出会いにも縁を感じました。
昭和37年(1962年)には、次代を担う子供たちを育成する目的で、“美濃加茂ボーイスカウト”の発足に携わり、現在も子供たちの日焼けした笑顔、日々たくましくなる姿を見ることが、生きがいになっています。
また平成11年(1999年)からは、ロキシーヒルの会が進めている“豊かな森づくり運動”に参加していますが、植林、育樹、野外活動、炭焼き、キャンプなどで、若者達と一緒に気持ちのいい汗を流せるのも有り難いことです。ちなみにロキシーとはネパール語で焼酎の意味ですが、皆は“飲み助の丘”と呼んでおり、和気藹々の市民交流の場となっています。

■週1回の絵画教室が楽しみに。今は県美術展への出品が夢!

フェニックスやビロウ樹が茂る日南海岸に、へばりつくようにそそり立つ堀切峠
フェニックスやビロウ樹が茂る日南海岸に、へばりつくようにそそり立つ堀切峠。“鬼の洗濯板”と呼ぶ波状岩を荒波が洗う奇景に目を奪われる。南国情緒ただよう日向灘の絶景だ。
ある出会いと縁が人生を切り拓き、そこに人生の妙味が醸し出されます。ボランティア活動から学んだこと、気づかされたことは筆舌に尽くせませんが、あくまでも自分の意志で決め、黒子に徹することが大事だと思っています。
私が尊敬する西郷南州先生の言葉に“人世の浮沈、晦明に似たり”とあります。人の世の浮き沈みは月の満ち欠けのようなものという意味です。
曾祖父・盛賢(もりかた)は、西南の役の時に薩摩軍に加担して戦列に加わりました。そんな歴史の激流に生きながらえてきた野村家ですが、私自身、常に心していることは“士魂宥心(しこんゆうしん)”。慢心せず自戒して、他人に寛大に処するという気持ちです。いつの時代も人間に通底する普遍的な心でしょうし、いやしくも医療の道に携わる者が踏むべき気がまえと信じています。
子供の頃から好きだった絵画ですが、忙しさにかまけて絵筆も遠のいていました。
今は長男・賢介に医院を任せていますので、今年の4月からは週1回の絵画教室に通うことができるようになり、幸せです。
これからは心身を養生しながら、夫婦で旅行や山歩き、グルメを楽しみたいと思っています。願わくば、趣味で高じた自分の作品が県美術展に出品できればなどと、夢見る毎日です。

撮影:永野一晃
写真資料提供:野村靖夫

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